第42回 『究極の選択』
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今世界では、たくさん非道なことや、悲惨なことが起きています。 それを嘆いたり、批判したりすることは容易いし、糾弾するのはやむを得ないでしょう。 しかし、今回はその良し悪しではなく、 「もし、それが自分だったら」 「もし、その場にいるのが私だったら」 どうするのか。 究極の選択を迫られる時、 「自分はどうするのか」を考える機会にしていただけたらどうかと思います。 「目の前の人は全く自分とは関わりのない無垢な人に見えるが、上官から殺す命令が下された時。」 「実行しなかったら、自分が死ぬか死ぬより悲惨な目に遭う、もしくは家族が殺される時」 「上司からの理不尽な指示を飲まないと、自分が更迭され社会的地位を失う時。 そうなったら間違いなく一族の笑い物になる時」 「後から、自分の行動が露見した時、隠さず誤魔化さず真実を言うのか、人になすりつけるのか迫られた時。」 もしくは、「自分は正しい選択をしたつもりだったが、落とし入れられ、世界中の人からバッシングを受けた時」 ニュースを見るたびに、私には 「あなたは、自分の行動や選択を、どんな時にも正々堂々と釈明できるのか」 を問われているように思います。 「腹をくくる」としたら、どうするのだろう。 どこまで、自分を貫くことができるのだろう。 そもそも、貫くような自分があるのか。 人は、些細なことは認めることはできるけれど、大きな罪になればなるほど認めづらくなるものです。 「ごめんね。やっちゃった」では済まされないですから。 ですので、大きな罪を咎めるときは、自分が同じようなな小さな罪を犯していないかを顧みることはものすごく大事なのです。 自分の信念は、万人が認めなくても貫けるか。 生き残るためにどこまでするのか。 自分や家族の生命がかかっている時。 もしくは、自分や一族の社会的生命がかかっている時。 他人事ではない気がします。